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1日にできることと、移動することについて

1人の人間が、1日にできることなんて、それほど多くない。

あの人は、いろんな場所を飛び回って活動してるなぁ、と思ってみても、目的達成に必要な場所が離れているというだけだ。

長距離移動すると、やってる感が増幅して見える。実際は、空間の移動に大した意味があるわけではない。

物理的な空間は、存在の重複ができないから、隣、隣、のまた隣を使うことを選ばざるを得ない。争うのも大変だからね。

人はたくさんいるから、そうやって重複を避けた妥協をしているうちに距離が離れることになった。

どれだけ忙しそうに振る舞っても、どれだけ多くの場所を訪れても、1日は誰にでも24時間で、そこに詰め込めるのものは、限られている。

誰かが「すごい、あんなに活動している」と見えるのは、移動の距離や行動の派手さによる錯覚だ。

飛行機に乗って都市から都市へ、会議から会議へと飛び回る姿は、目立つ。でも、よく考えてみれば、それもただの「点と点を繋ぐ作業」にすぎない。

点Aから点Bへ移動し、そこで何かを話し、また別の点Cへ向かう。

果たして、その移動そのものにどれほどの意味があるのだろう?  

移動の時間、待ち時間、準備の時間。それらを差し引けば、実際に「何かをしている」時間は驚くほど少ない。

人は、空間を移動することで、自分の存在を大きく見せようとするのかもしれない。SNSで「今、ここにいる」と投稿し、別の場所での活動をアピールする。

それは空間の制約に縛られた人間の性だ。物理的な世界では、ひとつの体が同時に複数の場所に存在することはできない。

だから、移動という行為を通じて、自分の影響力を広げようとする。でも、移動の先に待っているのは、結局のところ、同じように限られた時間と、同じように限られた行動の選択肢だ。

移動しなくても、家にいてじっくり本を読み、考えを深めるのだって、立派な「行動」だ。誰かと話し込むのだって、会議と同じくらい意味があるかもしれない。

いや、むしろ、移動の時間を省いて、じっくり向き合う時間の方が、深い成果を生むことだってある。

なのに、なぜか人は「動くこと」に価値を見出しがちだ。動かなければ、何もしていないように感じる。社会が、そういう空気を植え付けてきたからかもしれない。

1日にできることの限界は、時間だけでなく、心の容量にもある。

頭の中では、常に複数のことが絡み合い、優先順位を争っている。どれだけ効率的に動こうとしても、集中できるのは一度にひとつのことだけだ。

マルチタスクなんて、ただの幻想にすぎない。ひとつのタスクに集中すれば、別のタスクが疎かになる。

切り替えを繰り返しているだけなので、一度にできるのはいずれにせよシングルタスクなのだ。それが人間の限界。

どんなに遠くへ行っても、どんなに多くの人と会っても、1日の終わりに残るのは、一握りの記憶と、一握りの成果だけだ。

だから、もし本当に大事なことをしたいなら、移動の量や行動の多さにこだわるのをやめてみるのもいい。

無駄な移動を減らし、意味のない予定を断り、じっくり向き合う時間を確保する。

そうやって、限られた時間を大切に使うことが、結局は一番「多く」を生むのかもしれない。

1日が終わるとき、振り返って「これをした」ものがひとつでもあれば、それで十分だよ。

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関 宏貴

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長野県生まれ。ベストライフなんば利用者。 地球を冒険してから、京大、Appleなどで働き、ベストライフに辿り着く。 うつ病、強迫性障害、てんかん、ASD、HSP。ささやかでシンプルな生活を好む。 ベストライフで書いた著作に「HSPさんが自分の魅力に気づくための15のヒント」がある。